哲学対話:問いを立てること

こんにちは!今回のゼミでは、哲学に詳しい須長先生から哲学についてお話をお聞きしました。自分の今までの哲学知識は乏しいのですが、興味はあったのでとても刺激的でした。それでは、文章に起こしていきたいと思います。

 

 

 哲学の営み

 まず、「知識は毒」だと先生は話されていました。聞いた時はどういうこと?って、思いました。これは知識や価値観は洋服とは違い自分の意志では脱いだり、着たりすることができない鎧のことで、一旦知識や価値観を身に着けると、知らなかった自分に戻ることは難しいということ。

 それは、以下のように捉えることもできます。ネットなどで自分の知らなかったことを検索するとき、なじみのある知識は容易に理解し記憶するが、そうでない知識に関しては無意識のうちに排除すると。

先生が知識は鎧だという話の時に出された例として、牛の絵と木とダルメシアンが映っている絵を提示してくださいました。(実物があればよいのですが、今はありません。申し訳ない)これらの絵は一見すると、なんだこれ?って感じが第一印象であった絵なのですが、「これは牛の絵だ」と言われるともうそれにしか見えなくなるのです。

こういった知識の殻から抜け出す解決策として、既存の知識を揺さぶることが大切だと教わりました。

「問を立てること」

次に問いを立てることは、答えをただ出すことよりも大切だと教わりました。

問いを立てるスキルを向上させるには、

  • 簡単に分かったと飲み込まない、
  • 馴染みのあるものを異化することなどをしていく。

例題として、

これからの社会では、正解のない問いを考える力が必要になってくるだろう。

という問いに対して、子供に説明するとなると、どう説明すればよいか?という考え方に変換すると、なんの違和感もなかった問いが、いっきに難しくなりました。これがいわゆる問いを立てるスキルの向上につながる簡単に分かったと飲み込まないということがわかりました。

哲学対話のルール

哲学対話は、Yes Noで決められる議論でも、居酒屋でのただ楽しいコミュニケーションをとる会話でもない対話だとおそわりました。他にも、哲学対話のルールとして、

  • 「答えを出さずに問い続けること」が大事なのではない
  • 自分の言葉でゆっくり話す。
  • 相手の言葉を理解する。
  • 「もう一度お願いします」と言う。
  • 相手の言葉によって自分の知識や価値観が揺さぶられることを恐れない。
  • 結論を急かさない。

 などがあります。

この哲学対話のルールの中で先生が協調されていて印象に残ったものとして、哲学対話は問いを立てることばかりで答えを出さないでよいというわけではない。という言葉が心の中のあります。次のテーマの実践では、そのことを特に意識したのですが、中々難しかったですね。では次にいきます。

哲学対話を実践してみる 

 授業の後半では、哲学対話を実践してみました。今回の問いです。

  1. なぜわれわれは「あなたは差別している」と言われたくないのか
  2. 差別をしたくない場合、どうすればいいか?あるいはそもそも、差別はしてしまっても仕方ないものなのか(だとしたら、なぜ世の中でじはかくも「差別はいけない」と言われているのか)

班での意見

1に対して、私たちの班では、周りのイメージを気にするから、小学生くらいの時から差別は良くない、悪いことだと教え込まれてきたから。

 2に対しては、差別をしてしまっては仕方ないというような意見に傾いていたのかなと思います。その根拠としてホームレスを例に出します。ほとんどの日本人はホームレスが道端や駅のホームに寝ていたらその近くをできるだけ通りたいとは思いません。これは自己防衛反応のためです。だからこういった状況になると差別感情を抱いてしまうことはだれにでもあることなので仕方ないということです。これは今回の話の一部ですが、差別は仕方ないという意見よりでした。

私の意見

問いに入る前に、「差別はダメだ。いけないことだとだ。」と言われて来ていますが、差別の根端は無意識的に発生しているのではないかと考えました。なぜなら、私もこのゼミでこの問題を取り扱うまでは差別とは疎遠だと思っていましたし、差別なんて当たり前にしていないでしょ。とでさえも思っていましたので。だからこそ差別を無くすというより、これは差別なんだなと一旦距離をおいて差別というものを再認識して、あっ、これはいけないことだったんだなと自覚し、対処していくことが重要だと思いました。

要するに、差別という概念を作った人が差別を一番しているのではないのか。

自分でもこの文章がまとまっている気がしないですが、ニュアンスだけでも汲み取って頂けたら幸いです。

ようやく、本題に入ります。上のことを書いたので矛盾しているかもしれませんが、

この問いに対する私の意見は、

  1. 自分のアイデンティティのように、差別はいけないものだと組み込まれて育ってきたのでその方針に反するため。
  2. 差別をしたくない場合、差別ということをしているという自覚を持たなければいいと思います。これは、差別を許しているわけではなく、差別という概念自体を知らなければ差別ということを意識せずにすむというわけです。

 

気付き

問いを立てることは、森田先生の言っていた「なぜ?」と日常に疑問を持つことに似ているので哲学と相乗効果がありそうです。

最後に、今回差別について私の意見を自分なりにまとめてみたつもりですが、迷路の中にいるように自分はこうは言っているが、それに対しても批判の意見を持ってしまう。といった感じでわけわからなくなりました。今度哲学を考えるときには自分の意見を整理できるように頑張ります。以上です。