哲学:差別について考えてみた!

A 悪意はひとを鍛え、かつひとを滅ぼす

内容

私が思う、この著者の言いたかったことは、「攻撃性乃ち悪意を排除することは一概には良いとは言えない」ということだと思います。

もし、全ての悪意(攻撃衝動)を取り除くと

  1. 努力とか競争心自体も生まれない。
  2. 世界は発展せず、ましてや人類は生存出来なかった。

ということが起きると言える。

感想

私はこの文章を読んでいて、最初と最後らへんの内容はなんとなくは理解できたんですが、中盤の「外形的に他人に危害を加える行為のうち、動機によって正しい行為と誤った行為を区別することは有効ではない」という部分が理解できませんでした。自分の解釈が正しいのか分かりませんが、見た目のことで相手に誹謗中傷を浴びせる行為は動機によらずしてダメでしょ?と思いました。

「な」「は」→「外形的に他人に危害を加える行為のうち、動機によって正しい行為と誤った行為を区別することは有効ではない」

「す」→すごく同意まではできないが、「悪意のうちにこそ人生の豊さがある。」

 

B 快・不快を統制する社会の恐ろしさ

内容

快・不快の感情を社会が統制してしまうと感受性が薄れる。この文章では、「不快という感情がどうのよな場面のときは抑えるべきか?」という問いに対して、著者は日本人は、公認された被差別者に対しては抑えるべきだと答えている。そうしないと社会的に葬り去られるからだ。

感想

この著者が言及していたように、「不快に思っても不快に思っていないように振る舞う」というところに実際に日常生活でもしているなと共感しました。

私が思うに、不快という感情を感じるのは仕方ないことだと思いました。なぜなら人間だからです。Aのローレンツ的な考えですが、不快という感情があってこそそれを取り除くためのモノやサービスが開発されていると考えることができると思うからです。

 

C 帰属意識アイデンティティ

内容

人間は、自分の所属している集団によって自分のアイデンティティは構成されていると考え、その集団を愛したり、保護したりする。このことが差別意識を生んでいる。差別意識が起きている例を挙げると、

地元について言うと、地元を愛すこと当たり前だと思い、そう思わない人のことを排除する。

家族について言うと、家族を愛していることが幸せだということが当たり前だと考え、そう思っていない人のことを強制的に不幸だと思う。

などといったことである。

感想

日常的に友達から言われて、これと似たようなことを体験したことがあります。その時、友達にとっては当たり前な事を私にも強制されたことがあり、なにか腑に落ちないところがありましたが、無意識にこの帰属意識が働いていたんだなと改めて意識させられました。

D 「よいこと」を目指す態度

内容

 小学生などから義務教育が始まり、先生などから無意識のうちに「よいこと」を教え込まれる。このよいことのせいで、ここでも差別が生まれる。

感想

無意識の内に日本社会では勤勉であることがよいことだと教え込まれているのは少しおかしいような気がしますが、勤勉であることは将来のことを考ての行動だからそこについては納得できました。

読み終えた後、勉強しろと言われるが勉強して良い成績をとってもその成績を誇りに思って周りにアピールすることは控えるようにしたほうがいいと、この著者は言っていたが、それはおかしいと思います。自分が努力して良い成績を取ったならアピール位して良いと思います。これは哲学的には反した意見かもしれませんが。

 

思ったこと

哲学には関係ないんですが、この本の著者がわざとなのか、ひらがなを使っているところに疑問を覚えました。、ex. 人→ひと 後→あと

今回このような形で哲学に真面目に向き合ったことは今までには無かったのですが、哲学は文章理解することも難しいし、無際限にとらえ方があると思い普段使っていない脳の一部が使われた気がしました。

ゼミでは、先生が哲学で学んだことを日常生活に当てはめて考えることが哲学対話の目的であると話されてましたので、これからは「なぜ?」と同じように普段から意識して過ごしてみようと思います。今回は以上です。